タトゥー

タトゥー
荒木田慧の詩集 生活の詩より
夏の午前中の、まだ人影のまばらなプールサイドを並んで歩きながら、男が言った。

「僕、髪を自分で抜いてるんです」

足の裏が熱いな、と頭の隅で感じながら私は答えた。

「それは、色かなにかのこと?」

「いえ、ブチブチと、手で抜いてるんです」

私は面食らって訊ねた。

「それは、なにか意味があるの?」

男は真剣な面持ちで答えた。

「はい。恩返しなんです」

私は首をかしげる。

「恩返し?」

「はい」

男は表情を崩さない。

「僕には三人、お世話になった人がいて。
一人目は、ひきこもりから抜け出す時にお世話になった前のバイト先の店長で。
二人目は、姉の旦那さん。
三人目は、今のバイト先のAさんです」

Aさんは私もよく知っている。
Aさんと私と男は、同じ店でアルバイトしているのだ。

「うん、お世話になってるよね」

「はい。それで、その三人には共通点があって」

「うんうん」

男の神妙な語り口に、私は引き込まれていた。
その三人には共通点があって?

「三人とも、禿げてるんです」

一瞬の間の後、私は水色の空に向けて笑った。
男は笑わなかった。

「僕は、その三人に、お世話になった感謝の気持ちを示したくて。
三人とも禿げてるから、僕も、禿げようと思ったんです」

そう言うと男は足を止め、私の方へ向き直り、水滴の滴る長い前髪をめくって見せた。

おでこの上、真ん中の部分が、小さな三角形に禿げている。それはどことなく私に、落武者を思わせた。

「ほんとだ、禿げてる」

私は震える声で笑った。
50mプールの水面が、小さく揺れた気がした。

「ねえ、あなたが恩返しのために禿げようとしてること、その三人は知ってるの?」

男は首を振った。

「いえ、知りません。同じバイト先のT君には話しました」

「ああ、T君。この前初めて一緒だった。いい子だよね。それで彼は何て言った?」

足裏が熱さで痛いのに気づき、私はプールのへりにしゃがみ込んだ。左手に水をすくって、パシャパシャと足元にかける。

「『それは新しいかたちのタトゥーですね』と言ってました」

私はしゃがんだまま、深く笑った。
飛び込み台の下に固まっている、水泳部らしき何人かの男子中学生がこちらを振り返った。

「T君は賢い、いい子だよね」

T君は男の半分くらいの歳の、ペルーの血の入った男の子で、うっとりとした暖かな目をしている。(初めて会った日、彼は私に、「何をしている時がいちばん幸せですか?」と質問した。夢見るような彼の口調を、私はすぐに好きになった。)

男は頷いた。

「はい、僕はT君が大好きなんです」

いつの間にか休憩のラジオ体操は終わっていた。私たちは流れるプールに身体を沈める。水がつめたい。

「バイト先で一番好きです」

「そこはAさんじゃないのかよ!」

私は一際大きく、力強く笑った。
男の方へ水がはねた。

「あ、忘れてました」

そこで初めて、男も笑った。


男と私は近付いたり離れたりしながら
それぞれ
流れるプールを泳いだ。

泳ぎながら私は
私の後ろを泳ぐ男の
滑稽なくらいの優しさと
愚かなほどの実直さと
かなしいまでの不器用さを思った。

笑えて、バカげていて、
涙がでそうだった。

それから、
男が世話になったと言う
三人の禿げのことを思った。

男はその三人に共通する
深い優しさを、
彼らの薄い頭髪にも
見たのかもしれない。

私の右横へ
ゆっくりとすべりこむように
男が流れてきた。

「あの、僕、気づきました。
顔を半分だけ沈めて泳げば、
首も痛くないし、息も苦しくない」

三人の禿げた男たちが
彼を愛さずにおかない理由が、
私にもよくわかる気がした。

まだ早い夏の光が
そこかしこできらめいている。

市民プール
タトゥー禁止の市民プールで、
彼のタトゥー
新しいかたちの彼のタトゥーは、
誰からも咎められることがなかった。

とても間違っていて、
同じくらい正しかった。

とてもきれいで、
同じくらいかなしかった。

きっと彼のタトゥーは
誰にも咎められることも
気づかれることもなく、
三人の禿げた男たちにさえ
きっと気づかれることはなく、
(共感や心配されこそすれ)
それでもその三人は
(私はT君は)
これからもこの
おかしな優しい男のことを
きっと愛し続けてしまうだろう。

男が髪を抜くのを
手伝ってやりたいような気もした。

髪を自分で抜くときの
痛みについて思った。









2018年8月12日

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