シーセーゾーイッカのカトーさん

シーセーゾーイッカのカトーさん
荒木田慧の詩集 小説より
「あら、それは車よ。」と彼女は言う。
 She says “Oh, it’s a car.”

 早朝六時十分前、まだ人も太陽の気配もない一月のつめたく黒い舗道を、坂でもないのに立ち漕ぎで強く自転車のペダルを踏み、修二はアルバイト先のコンビニエンスストアへと急ぐ。

 まだ深く眠っている角を曲がり、暗い田舎道に光る方舟のような店の建物が目に入ると初めて、修二はふーっと息を吐いて膝の力を緩める。暖かい息は眼鏡を白く曇らせるが、修二はそれを拭うのも面倒で、水っぽく湿ったまま店内へ入る。

 眩しい入店音が鳴り、おでんとフライの匂いが修二の無感覚な鼻先を温める。それに気づいた夜勤の若いミヤギが、カウンターから手を上げて寄越す。「うっす」と会釈してバックルームへ入ると、事務机の椅子では夜勤のイノウエが背中を丸め、発注作業に入っている。膝の上のモニターに視線を落としたまま、イノウエは「おはよう」と修二に声をかける。「おはようございます」と修二はそれに応える。

 コートを脱ぎ、トレーナーの上からユニフォームを着る。名札の裏のバーコードをスキャンして慌ただしくカウンターへ出ると、同じ朝勤のパートナーであるコバヤシは、いつの間にか既にレジで笑っていた。

「修ちゃん、おはよ。」

 コバヤシはいつ何時も少女のように無邪気で、彼女がまもなく還暦を迎えるのだという事実を、三十五歳の修二はまだリアルに飲み込めない。

 カウンター下の箸やストローや、コーヒーの紙カップや肉まんの補充が済んだ頃、正面ガラスの向こう側から、夜をことごとく負かしながら金色の太陽が上ってくる。またたく間に店内へ流れ込む、透明な蜂蜜の洪水。修二はこの瞬間が好きだ。琥珀に閉じ込められた虫は、きっとこんな気分だろうと修二は思う。

 この朝の潮が満ちて干いた頃、あの人はやってくる。

 あの人のことをコバヤシがイノウエに噂しているのを修二が耳にしたのは、ひと月前の初勤務の日だった。修二ははじめ、彼女の発した言葉を全く理解できなかった。

「シーセーゾーイッカのカトーさん」

 そう彼女は発音した。
「シーセーゾーイッカのカトーさんはさ、すっごい甘党なのよ。餡パンメロンパンチョコパン、三つとも甘いの買ってくでしょう。」

 その日、修二は家に帰ってからも、「シーセーゾーイッカ」について考えた。
 この不思議な音をもつ言葉には、どんな意味があるのだろう?
「わからないことがあったらなんでも訊いてね」とコバヤシは爽やかに言ってくれたが、修二は誰に対しても訊くということが苦手だった。

 シーセー・ゾーイ・ッカ。
 シー・セー・ゾー・イッカ。
 She says “Oh, it’s a car.”

 いろいろとこねくり回した挙句、修二は両手を上げて早々と降参した。
 答えがわかったのはそのすぐ翌日の朝だった。

 太陽が上りきってから随分たった頃、青のジャンパーを着た男たちの一団が、白いワゴン車に乗って店にやってきた。
「あ、ほら、あれがシーセーゾイッカのカトーさん。」

 男の一人がパンコーナーからまっすぐレジに向かって歩いてくるのを見つけて、コバヤシはそう修二の耳元で囁いた。
 慣れない手つきで白いバーコード読み取り機を右手に掴み、レジの正面に立った背の高い男を見上げて、修二はマスクの下で
「なーんだ。」
 と思わず声を上げそうになった。
 男のジャンパーの左胸の上には黄色い刺繍糸で、

「C製造 一課 加藤」

 とあった。

 男はチョココロネとホイップメロンパンとクリームデニッシュの袋をカウンターに置くと、
「わかばひとつ。」
 と俯いたまま小さな声で呟いた。すかさずコバヤシが後ろの棚へ手を伸ばし、煙草の包みを修二の横からついと差し出した。

 C製造一課の加藤さんは正確な金と引き換えに複数の甘い炭水化物を受け取ると、煙草をズボンの尻ポケットに押し込み、同じ青いジャンパーを着たその他の男たちと一緒に白いワゴン車に乗り込んで、この街のどこかへと逃げるように消えていった。

 つめたい朝の金色の琥珀と、閉じ込められた虫と、そのあとにやってくる青い甘党の男。伏せられた睫毛。聞き取れないほど微かな声。うすみどり色の柔らかいわかば。浮くように飛んでいく白い白いワゴン車。

 ひと月前のあの日から、修二はあの人を待つようになった。C製造一課の加藤さん。朝の潮が満ちて干いた頃、彼はやってくる。

 表の駐車場で夜の残り滓をホウキとチリトリで掃きながら、そこへ滑り込んでくる白いワゴン車を、修二はいつも横目で期待している。国道から続く角にその車を見つけると、修二は心臓がどくどくと波打ち始めるのを感じる。

 あの人が来て去った後でやってくる、横腹に女の子の絵のついたパン会社のトラックを目の当たりにする度、あの人より先にこのトラックがやってきてくれればいいのに、と修二は思う。そうすればもっと新鮮な焼きたてのパンが、きっとあの人の腹に入るのに。

 今朝もやはりあの人はやってきた。いつもと同じ白いワゴン車で、同じ青いジャンパーを着たその他の男たちと一緒に、迷わず三つの砂糖のパンと、うすみどり色の煙草を買って出て行った。

 修二は店に入って既に一ヶ月が経つが、あの人のレジを打つときは未だに指が震える。それを見てコバヤシはふふと笑う。
「シーセーゾーイッカのカトーさんて、なーんか、いいんだよね。私すごい好き。」
 ある日、修二は意を決して訊ねる。

「あの。」

 コバヤシさん、この店の朝は、琥珀に似ていませんか。琥珀と、その中の虫が僕です。僕は、虫に似ていませんか。僕は、虫ではないでしょうか。蜂蜜の金色の波と、青いジャンパーと、左胸の黄色い刺繍糸、うすみどり色の軽くて柔らかい煙草、それから、それから、あのまるで折り紙の船みたいに白い……。

「あら、それは車よ。」

 ミヤギとイノウエが欠伸をしながら店を出た後で、彼女はそう爽やかに言ってのけた。










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