産(2)

産(2)
荒木田慧の詩集 エッセイより
私は今、亡くなった祖父の家に住む叔父のところへ居候しています。近くにJR両毛線の線路が走り、田んぼの拡がる西側には踏切があります。

叔父が話してくれました。私の曽祖父には、曾祖母の前に前妻がいて、その女性は「石女」だったため離婚され、理由はそれだけではないかもしれませんが、その踏切で鉄道自殺したそうです。「マツ」という名の女性でした。警笛が鳴って、曽祖父が見に行き、家に帰ってきて、「おらがとこのマツだった」と一言、言ったそうです。

私とは何の血縁もない、マツさんというその女性について考えます。(マツさんが石女でなければ曾祖母と再婚することはなく、私はそもそも生まれなかったのですが。)

「産まない」選択肢のない時代の女性にとって、「産めない」ことはどれほどの痛みだっただろう。私はマツさんが自殺した理由がせめて、「愛した人の子を産めなかったこと」だったらいいのに、と思いました。「子を産めなかったこと」ではなくて。

「マツ」という題の詩を書こうと思って叔父に詳しい話を聞こうとしたら、「そんな暗いことは書かなくていい」と教えてくれなくなりました。でもいつか書きます。今日も踏切の音が聞こえます。

女性にとって「産むこと」にまつわる感情はさまざまだと思います。
産みたいのに産めない。産みたくないのに産まなければならない。産みたいと思えたらいいのに、産みたいと思えない。懐胎し産みたかったけれど、堕胎しなければならなかった。産みたくて産んだけれど産まなければよかった。産みたくなかったけど産んだ、でも産んでよかった。本当は、あの人の子を産みたかった。もう産んだほうがいいだろうか。まだ産めるだろうか。産んでおけばよかった。もっと産んでおけばよかった。などなど。

ある男性は「女性には子供を産んでほしい」と私に言いました。私は産まないけれど、そういう考えの方がいてももちろんいいと思いました。

今年の春ごろだったか、夫(元)と焼き肉店に行きました。初老のウェイターの男性がテーブルの横に来て、私に聞きました。

「予定日はいつですか?」

私は意味がわからず「なんの予定日ですか?」と聞き返しました。男性は、「赤ちゃん」と答えました。どうやら私を妊婦と間違えたようでした。妊娠していそうな年齢で、男といて、太っていて、ゆったりした服を着ていたからだと思います。私は愉快になって笑いました。「私は何を孕んでいるのだろう?」

私の喜びを一緒に喜ぼうとしてくれたその男性の優しさがよく伝わったので、私は彼が失礼だとは思いませんでした。(痩せよう、とは思いました。)でも、私は「産みたくない」女性だから笑い話にできたけれど、もし私が「産みたくても産めない」女性だったら、彼の言葉は深く心に突き刺さったかもしれません。(これもいつか「予定日」という題の詩にしたいです。)

私には「誰もが自分と同じ価値観を持っている」という固定観念はありません。(だって私は違いが面白いのですから)いろんな感想をもらうために、書いて人に見せています。誰かから返ってきたものが、自分と違ってもいいのです。でもだからこそ、自分の書いたものが誰かの痛みや不快な感情を誘発するかもしれないということは、深く心に刻んでおきたいと思います。

(私は、「私にはこう見える」「私はこう思う」には全く暴力性を感じません。どんなに差別的な内容であってもです。ですが「私の思うことが事実であり正しい」「だからお前もこう思え」には途端に暴力性を感じます。平和や反戦、平等や博愛を訴える一部の方たちから、激しい憎しみと暴力性を感じることがあります。私は混乱するのでそういった情報にはなるべく触れず、受け取らないようにしています。送らないようにも、同じように気を付けたいと思います。)

(終)







2018年11月9日

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