自殺未遂と女性自身(3)

自殺未遂と女性自身(3)
荒木田慧の詩集 「エッセイ」より
(つづき)


中学の、理科の授業中だったと思う。

背のひょろりと高い眼鏡の教師(私はいつも目の底に笑いをたたえているこの教師の、どこか飄々としたところが好きだった)が私たちにこう言った。

「君たちは、自分の心臓を止めることができますか?」

私たちは誰ともなく息を止めはじめ、数十秒の沈黙の後、勢いのいい溜息のようにめいめいそれを吐き出した。

「心臓を止めろって言うと、なぜかみんな息を止めるんだけどさ。息を止めても、心臓は止まらないんだよね」

教師が笑って、みんなも笑った。
一様に、上気した赤い頰をしていたと思う。

「心臓を自分で止めることはできない」

確か教師はそう言って、この話を終えたはずだ。

それは中学の理科の授業の
何でもないワンシーンだったのだが
どこかしら啓示じみた印象を私に与えた。

「あなたたちをつくったのが
あなたたちではないように
あなたたちの心臓を止めるのも
あなたたちではないのです」

自分の中の心臓さえ
自分では止めることができない
生まれてしまった私たち。


勢いよく、溜息。


自力でトイレに行けるようになったので
尿道からカテーテルが抜かれた。

意識を失っている間に
尿道にはカテーテルが刺され
気がついた時には紙おむつを穿いていた。

「死にたい」とどんなに頭で願っても
心臓は勝手に打ち続けるし
尿だってオートメーションで作られ続ける。

体は飛行機にすこしだけ似ている。
よくできた自動操縦装置が付いている。
目的は、墜落しないこと。
目的地は、どこだかわからない。


夜。
消灯。


「看護婦さーん!」
「看護婦さーーん!!」

部屋の外、フロアのどこかから
看護師を呼ぶ中年女性の声が聞こえる。
大声で、何度も、執拗に、叫ぶ。

常軌を逸したその声の響きに
何かしらの精神障害を想像し
この人も私と同じような理由で
ここへ運ばれたのではないかとふと思う。

まるで小さな赤ん坊の夜泣きのように

(おかあさーん!)
(おかあさーーん!!)

赤ん坊が泣くのは
母親の乳房が欲しいからだが、
この泣き続ける女はいったい
誰から、何が欲しいのだろう。

そし
てそれ
は手
に入るの
だろ



気がついたらもう朝で、
状態が落ち着いた私は
個室から大部屋へと移された。
ドアを入ってすぐ、左側のベッドだ。

「いやあ、昨日の夜はすごかったね…」
「ええ、随分賑やかでしたねえ…」

部屋のどこかから、
患者同士の低いヒソヒソ声が洩れ聞こえる。
私は彼らの顔の上に浮かぶ
苦い笑いを想像する。

あの声の主の女性は、
この病室の患者ではないのだろうか。

クリーム色のカーテンで
小さく区切られた私のベッドからは
他の患者の姿はほとんど見えなかった。


また、深い夜が来た。

昨夜の絶叫おばさんの声は、しない。
強い睡眠薬でももらったのだろうか。
昼のうちに退院したのかもしれない。

(欲しかったものは
ここにはなかった?)

閉じられたカーテンの向かい側から
しわがれた老婆の声が聞こえる。

なおこオ…
なおこオ…
死んじゃいたいよオ…
死んじゃいたいよオ…

今この夜の底で
私のいる大部屋には
いったい何人の救急患者が
横になっているのだろう。

起きているのは、
私だけではないはずだった。

私は顔を知らない誰かと
老婆のその沈鬱な訴えを聴いた。

それぞれの繭の中
ベッドの上
抱えきれないほどの
命を抱えながら
息を潜め
耳をすませて。


(発せられた言葉は
聞き届けられなければならない)


朝が来て
新しいカーテンが開いて

私は向かいのベッドの上の
小さく痩せた
白髪の老婆を見た。

見舞いに訪ねてきた中年女性、
このひとがきっと「なおこ」だろう。

一人娘、だろうか。

なおこオ…
なおこオ…

母親の病や
その痛みや死の希求を
おそらくほとんど一人きりで
受け止め続けなければならない
「なおこ」の細い肩を思った。

(なおこ、)
(なおこ、)

彼女が幼い頃、
この母親はどんな色の声で
彼女の名を呼んだだろうか。

(つづく)









2018年11月4日

他の「エッセイ」
© 2021 Kei Arakida