浴場の女たち

浴場の女たち
荒木田慧の詩集 生活の詩より
公衆浴場の湯の中で
わたしはみる
見ず知らずの女たちの裸を

若い女の猫背
また別の若い女の平背
そこから伸びるほそい頸
濡れた黒髪のまとわりつく
上気する頰
まどろむふたつの瞳
なにか言いたげにゆるむ
うるんだ唇
端がピンク色した耳は
反響する水音をひろう

経産婦たちの
どこか喪失感のある胎や
老婆のあきらめきったような乳と倦怠

少女たちだけが持つ
子鹿のようにしなる背骨と皮膚

どの女もどの女も
どれほど肉がたるんでいようと
ひとつくらいはどこか美しく
幾つであろうと
どことなくコケティッシュで
女であるかぎり
蠱惑の色は失われていない

この
ますます高度に
個人情報が管理されようとしている
この 現代にあって
言葉を交わしたこともない彼女らの
乳のかたちや 腹のゆるみを知っている
わたし というものの存在は
とても不自然で
前時代的なもののように感じる
(理想と現実のあいだに横たわる
解消しようのないひずみのような)


小さな女の子が
小さな男の子のきょうだいを連れて
わたしの横へ来る

裸の女たちのあいだに突如乱入する
ちいさな未発達の異性に
少しぎょっとしてしまい
わたしは自らの母性をゆり起し
それを納得させる

湯を跳ね散らかせて嬌声をあげるかれらを
わたしは湯気越しに目を細めてみるが
やがて祖母らしき女がやってきて
たしなめるようにふたりを回収していった

ちいさな彼のなかに
このようにして
女性 というものの
原風景が
きざまれてゆくのかもしれないと
湯に肩をうずめ
ぼんやり思う

幼いころに
母や祖母に連れられ
女湯にはいったことのある男と
女湯にはいったことのない男
この二者では

というものに対するおおらかさが
全く異なるような気がするのだが
この二者の人生を追跡調査した
学術論文みたいなの
どこかにないかしら

もしあれば
わたしはそれを
ぜひ読みたい

そんなつまらないことを考えているうち
わたしの皮膚はふやけ
筋肉はゆるみ
ようやく熱は髄まで到達

わたしは自らを湯切りし
茹でたての身体を
服で包もうとするが
着てきた服など
すでに似合わなくなっている

入り口を出たところで
高校生くらいの若い雄が振り返り
追尾弾のような流し目をおくってきたので
わたしはその見境のなさに辟易しつつ
やれやれとそれにこたえ
軽い疲労のもどりつつある身体を
揺すり揺すり
せっけんの匂いをふりまきながら
あるいて家へと帰りました









2018年6月10日

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